「 先輩を訪ねて」    リレーインタビュー記 その2

柴原恵美 先輩 (昭和十五年 文科 卒業)

家食・昭和四十二卒  斎 藤 ちあ

 

今回の先輩は、昭和十五年に女高師文科を卒業された柴原恵美様です。十月二十七日に渡辺支部長、編集委員の塚田さんと斎藤がお訪ねしました。後日、成田前支部長にスナップ写真を撮っていただきました。

 

お若い時に二年ほど療養生活をされたために、昨年インタビューさせていただいた山村ふさ様と同期の卒でいらっしゃいます。大正六年生まれで当年満九十八歳。とても思えぬお肌のハリ、足腰の丈夫さ、お話しぶりに目を見張りました。 

 柴原恵美様は、女高師ご卒業後は三年半ほど、郷里の飯南高女(現松阪高校の前身)で教べんをとっておられ、ご結婚と同時に家庭に入られました。


 現在は津市一身田町の高田ケアハウスにお住まいですが、介護の必要などほとんど無く、個室はまるで書斎のような雰囲気のお部屋でした。

若いころから短歌をたしなまれ、今なお短歌作りを続けておられます。平成二十三年に、九十歳代半ばになられてから、歌集「環濠の街」波濤双書を出版なさいました。柴原さんが現在お住まいの高田ケアハウスを運営する高田本山の法主、常盤井鸞猷氏は、アララギ派の歌人でいらっしゃるそうですが、氏ともご縁を頂いているとおっしゃっていました。そして高田本山のあたりには環濠と呼ばれる水路がめぐらされており、歌集命名の由来だそうで、日々の暮らしから発する「おもい」をつづられています。

皇居で催された歌会始には、これまで三回入選されています。

現在は「波濤」というグループに所属されていますが、「波濤」は奈良女高師卒の故大西民子さんが二十二年前に創刊されたもので、全国組織の短歌の結社誌です。柴原さんは波濤が出て数年は波濤本誌の選者をつとめられましたが、八十歳になって若い方に譲られ、以後は波濤三重支部長、三重歌人クラブ、中部日本歌人会の委員として歌にかかわって来られました。もうすべてにお暇をいただかなくてはいけないと思いながら、車の送り迎えをして下さって、顔を見るだけで励みになると言われるのに甘えて、アスト津の波濤三重の月歌会に出ていると微笑みながらおっしゃっていました。

 女高師時代の恩師、木枝先生に習った文法を今なお鮮明に覚えておられて、歌集などに載る歌の言葉使いの間違いが気になり、今もって指摘されるなど、やはり女高師文科卒ならではの方だと敬服いたしました。

 

十月二十五日にはお子様、孫、ひ孫の皆様が集まって、白寿の祝いをされたとか。十一月の波濤例会でもお祝いを受けられるそうです。

 高血圧の薬を服用しておられるとのことですが、四か月前までは施設内で自炊もされておられた由、洗濯は今なおご自分でされますし、杖なしでしゃんとして歩かれ、お手玉を上手になさいます。ともかくそのご健在ぶりたるや、テレビはサスペンスがお好きで「相棒」を楽しみにしておられるそうです。

見るからに温厚なお人柄と、立ち居振舞からほとばしる気品が感じられ、また百歳のお祝いに伺えるのを楽しみにおいとましました。 

「六十、七十は鼻たれ小僧、男盛りは百から百から」で有名な平櫛田中の言葉が頭をよぎりました。きっとますます精力的に短歌作りを続けられることでしょう。

尚、今までに柴原様が出版された歌集のなかから、初期の作品「若草」「春霰集」「草絮集」を佐保会三重支部に頂戴しました。

以下、最近のケアハウスでの暮らしぶりを和歌に託してくださいました。


 

立ち待ちの月のさやけくある空に老の想ひを託さむとする 

誰も同じ健康と平和を願ふ声七夕の笹に短冊吊りて

 裸眼もて()()通し得し喜びを誰にも告げず九十八歳のわれ

 高齢のわれの気力を(たの)むとふ言葉もて昼の集会終る

                ()一つ果たさむとして出で立ちぬ街屋根の雪白き朝を

                子ら寄りて白寿を祝ひくるるとぞ十月二十日を慎みて待つ

                       寒の戻りの雨降るあした誰が撞くや時おかず()専修寺(せんじゅじ)の鐘