下井治子 先輩(臨数 昭和十九年卒業)

 第三回目となりました、リレーインタビューですが、今回お訪ねしたのは、四日市地区の下井治子様です。渡辺支部長、四日市地区委員の竹内敦子さんと編集員の鈴鹿・亀山地区委員杉村の三名で、お通いのデイサービス施設に伺いました。先生は、満92歳になられましたが大変お元気なご様子で、玄関先まで出てこられ、会報誌や名簿まで用意されて、準備万端整えてインタビューに臨まれました。

  下井先生は定年退職されるまで、数学の教員を続けられていたとのこと、厳格で几帳面な方を想像していましたが、とても気さくな朗らかな方で、楽しいお話は、時間の経つのがあっという間でした。

女高師時代に先生から「あなたたちは、田舎の辺鄙なところに勤めることになるから、そこの生徒をしっかり教育して育てれば、次を託す人ができる」と言われ、その通りに生徒たちに一生懸命に接してこられたそうです。(母校である四日市高等女学校を初めに桑名の中学校、河原田農学校、菰野高校、四日市高校、四日市南高校と北勢地区の学校に勤められ、佐保会会員の中にも教え子の方が多くおられます。現四日市地区委員は、二名とも下井先生の勤務されていた高校で学びました。)四日市南高校時代には、肺の病気をされて3か月も入院されたそうですが、誰もお見舞いに来ない日は一日もなく、毎日必ず誰かが来てくれたことは、教師冥利に尽きますと、顔をほころばせておられました。

 当時、女性としては珍しく「数学」を専攻された理由も、昔から宿題はやっていかなかったので、練習が必要な書き取りや家事科は上手くできないけれど、数学ならチョッチョッと解くことができて楽だったからと、愉快な答えをいただきました。


先生は、幼少時から数学的才能に秀でておられたのだと感服しました。親族にも教育者が多かったことや、女高師出身の先生に学んだことから、自然と奈良女高師を志望されたそうです。

 女高師は全寮制で、朝起きて朝食当番でキュウリなどを切っていると、コツンコツンとおぼつかない手つきの音で、「寝ていられないわ」と見かねた先輩が手伝ってくれるような状態でした。が、そのおかげで、家では、少人数分だからか楽々とできるようになっていたとこれも笑いながらお話されていました。

 寮生活での楽しみは、友人との旅行でした。夏休みに、友人たちに旅行計画を伝えて二十日位出かけると、途中で友達が参加して来たり、一人だけになったり、色々な人と一緒に遊び、誰とでも楽しく過ごすことができました。

働くようになってからは、台湾の師範学校で働いてみえた江崎先生(故江崎生子先生四日市地区佐保会員)という方に、台湾・香港へ行きなさいと誘われて旅行したのが最初の海外旅行でした。その後もよく旅行に行ったので、旅行会社の社長さんと今でもお付き合いがあり、差し入れをいただいたりしているそうです。

また、学生時代から歩こう会に入り、奈良の史跡をいくつも巡り歩かれ、特に冬景色は今も思い出となっているとのことです。退職後も、市の歩こう会で月に2回15㎞程度は歩いて見えたので、足は丈夫で、今でも杖なしで歩いておられ、若いころからの鍛錬の継続が大切だと教えられました。

最近の道楽は、「数独」だそうです。初級からいろいろなランクがありますが、最高級の難しいランクのものをインターネットで印刷して一日がかりで解いてみえるそうです。そして、クロスワードパズルもしていますが、歌手の名前などはよくわかりませんと笑っておられました。

スマートフォンで撮った写真も見せてくださいましたが、それよりもスマホを自在に使いこなしてみえるのに驚きました。スマホは、まだ二ヶ月くらいしか使っていないけれど、タブレットも一緒に購入し、両方使っている、というお話から、IT機器との出会いについて、になりました。

七十歳を過ぎてから、熟年大学に入学してワープロクラブを選んだところ、卒業してからも月に二回くらい皆で活動するようになり、次はパソコンへ。七十五、六才の頃、四日市商業高校定時制の情報科へ入学し、二年間の間に、表計算検定の三級に合格し、更に二級の勉強まで終了されました。ワードもパワーポイントも使えるようになり、ご自身のメールアドレスもお持ちです。卒業作品には、生い立ちのスライドショーを作成され、奈良での生活や景色なども入れて発表されたそうです。その時、先生の教え子が校長先生として、一番前の席で見ていたと笑われていました。

高齢になられても、こんなにもたくさんのことに精力的に取り組まれてこられたお姿に、並外れた向学心を感じ感銘を受けました。更に、小さいころから国語が苦手で、あまり読書をしなかったことを反省され、最近は電子書籍で読書をされています。そして、世界文学を英語で読むために、英語基礎を聞いてみえるそうです。特に基礎英語Ⅱでは、最初に英語を聞かされますが、耳が慣れると解るようになってきますねと言われました。

最後に、いつも前向きに楽しく年齢を重ねて見える秘訣をお訊ねすると、「何も気にせずにのんびりと過ごしていたからでしょうか。頑張り過ぎずに気楽にやってきました。友達に恵まれ、旅行に連れて行ってもらったり、教師同士の繋がりもあったりとありがたいことです。誰とでも仲良く、この人は嫌だということはありませんでした。そういえば『怒る人は自分に自信がないから怒るのだ』という三木清の話を学生時代に友人としていました。」とお答えになられました。

話は尽きなかったのですが、予定の時間が来たのでお暇しました。次から次へと、お話は途切れることがなく、記憶もしっかりとしてみえることに驚きましたし、好奇心が旺盛で様々なことに興味を持たれ、九十二歳でこれほど時代に乗られている方と初めてお会いしました。私たち後輩の素晴らしいお手本として、これからもお元気でご活躍いただくようにお願いしました。

帰り際に、先生から一人一人と握手をしてくださり、温かな手のぬくもりとお心遣いが心に沁みました。ありがとうございました。

 鈴鹿・亀山地区委員