退職後二十年の歩み   桔梗が丘にて

文国・昭和三十六年卒  江南 登美 

 私は、一九九七年三月、中学校三十年間小学校六年間の教員生活を終えました。

  今回、退職後の二十年を振り返り、自分史の一部にと考えて投稿させていただきました。市民の一人として地域の中でもがいてきた部分しか書けていませんが充実した日々だったと回想しています。

・退職の動機

  定年まで二年を残しての退職は、介護離職だった。当時は老人福祉施設も少なく在宅介護以外に考えられなかったので、勤務との両立は体力気力とも限界状態だったからだ。

 義母に、幻覚幻聴の症状が頻繁に出てきたのは、一九九六年初冬の頃。弱ってきた足ながら何かに誘われでもしたように夜中に外へ出ようとし、倒れても家中を這い回って声を上げる。昼夜逆転の義母に付き合い殆ど不眠のまま朝を迎えての学校勤務はきつかった。あれこれ考えた末、年度末には退職して介護に専念しようと決心した。

 それから三ヶ月、すでに退職していた夫は、昼も夜も介護を引き受け最後の勤務を支えてくれたし、職場の仲間の協力も得て、悔いなく退職できた。

・介護の縛りから解放される

 退職して1年目が始まる。不思議なことに三ヶ月もしない間に、義母の夜中の徘徊は治まってきた。いつも身近に息子と嫁がいて、

 声を掛ければすぐ傍に来てじっくり話を聞いてくれるという安心感が湧いてきたのだろう。「私の寝床に知らない人が寝てるから部屋に戻れない」と訴える義母。以前なら「何言うてんの。誰もいるわけないやろ。」と突き放した言葉も、「そんなら、もう帰ってと言ってくるから待っててな。」と言い、「もう帰ってくれたから大丈夫やで。」と傍に戻る。こんな芝居もできる余裕が私にも出てきた。

 そして気づいた。夫は、自分の母親の衰えを受け容れられず、厳しい言葉で諌めて正気を取り戻させようと頑張ったに違いない。それが義母を更に混乱させたのだ。当の義母がいちばんに自分の異変を感じ取り、もやもやした不安を募らせてのあの行動だったのだと。介護者に必要なのは、訴えを真剣に聞き、肯定し、ゆとりを持って対応することだと教えられた気がする。周りの家族がイライラして介護していては、病状は悪化するばかりだと、痛感した。

 そこで夫婦は話し合った。家にいて、義母を気にしているだけではストレスが溜まるだけで精神衛生によくない。長い介護を考えるなら、もっと地域の人々との交流を増やそう。これまで取り組んだものを続け、新しいことにも可能な限り取り組もう。互いに時間の調整をし合えばできると決め、私も地域デビューをした。始めてみると、介護も負担に思えないばかりか、義母も穏やかになってきた。

・心の教室相談員も傾聴が大事だった

 退職二年目の春、市内のある中学校から、「心の教室相談員」への誘いが来る。週三日、一日三~四時間というので、喜んで受けた。

 不登校の生徒や、登校できても終日教室に居ることがしんどい生徒が対象の仕事だった。相談室に行く私を待つ生徒は、休み時間になるとやってきて、家族のこと友達のこと先生のこと将来のこと等への不満や不安や悩みを、ぶちまけてはすっきりした顔で教室に帰っていく。私はひたすら聞き、相槌を打っていた。そして、現役の頃の私は生徒にとって充分な聞き手になっていたのかとの反省もあり、相談室で聞いた生徒の悩みを担任の先生に繋ぐことにした。生徒が最も力になってほしいのは担任で、担任が一緒に悩んで考えてやれば必ず生徒は自分の力で一歩前に踏み出せると信じようと、指導についても話し合った。

 幸いに、名張市内には五校しか中学校はなく、私も長く中学校に勤めていたので、先生方も覚えてくれていて、意思疎通ができた。不登校の生徒への対応は難しかった。相談室へは、親が来てくれることもあったが、ほとんどは事前に電話で了解を得て家庭訪問をし、親の話を聞くことから始めなければならなかった。訪問を重ねるうちに、親が目前のことに縛られず、長く十年後ぐらいに生徒の成長の目標を定めてくれるようになった。そのうち、生徒とも家でなら他愛ない話から親しくなり、中学校以後の進路についても考え合うようになったが、中学在学中に学校に来られるようになった生徒は一人もいなかったのは残念だ。しかし、その後も連絡を取り合い、通信学校や専門学校を出て仕事に着いたとか、何年もかけて通信教育を受けて外へ出る勇気も出て間もなく結婚するとか、子どもが産まれたとかの報告が時折届くのは嬉しい。

 心の教室相談員は二〇〇六年まで続けた。 

・戦争体験を語り始める

 一九九九年、退職三年目。地元の小学校から、「戦争体験があれば、三年生の学習のために話してやってほしい。」と頼まれる。

 終戦の一九四五年八月には、私は国民学校1年生だった。一六歳上の長兄は一九四一年の太平洋戦争が始まる前に出征し次兄も二年後に軍隊へ。長兄は一九四三年戦死、二十一歳だった。その頃はまだ戦禍が国内に及んでいなかったので、他の戦死した若者たちとの合同葬が村をあげて盛大に行われ、名誉の戦死と讃えられたのを覚えている。また、近所の人達の前では気丈に振る舞っていた母が、奥の部屋で人目を避けて声を殺して泣いていた姿を、切ない思いで見たことも忘れられない。

 私は、名賀郡滝川村現在の名張市赤目町に生まれ育った。ほんとうに山の村だ。だからこそ、京阪神から空襲を避けて疎開していた人達がどの家にもいたし、名古屋からの学童疎開で三百人余りが名張に来ていた程だ。そんな安全と思われた名張地方にも、六月以降毎日のように米軍機が飛来し、B29から焼夷弾をバラバラ落とし、低空飛行の艦載機から機銃掃射を浴びせるなど襲撃を重ねた。

 特に大きな衝撃は、七月二十四日のこと。学校の近くに赤目口駅という近鉄の駅がある。その日は、村の青年が出征する日だった。見送りに多くの村人が駅の上下ホームを埋めて電車を待っていた。空襲警報で長時間、前の駅に停められていた電車が動き出し赤目口駅に到着した瞬間だった。その電車を追いかけてきた艦載機二機が、ホームの群集や電車に向けて機銃掃射を浴びせたのだ。一瞬にして五十余名が死亡、百名余りが負傷という惨状がホーム一帯に広がった。警報解除がなぜ出されたのかと今なら思うが。私たちの学校は、朝からの空襲警報で休みになっていたので学校の児童の被害は、見送りに行った地区の数人に及んだ。また、大阪の戦災で、店も家も焼かれ、私の近所に疎開してきたばかりの家族のうち、両親と末の弟の三人が大阪の様子を見に行こうとして同じホームで被弾し死亡して姉妹だけが残された友もいた。

 死者負傷者は、学校の講堂に運ばれ手当てを受けた。床は血の海となり、雑巾や古布で拭いても拭いても血痕は消えなかった。その講堂で六年間学校行事や学習をする度に、あの日の記憶が蘇って、戦争が終わってよかった、貧しい暮らしでも平和はうれしいと思った。

 そんな体験を、今私が住んでいる地区の桔梗が丘南小学校の三年生に話すと、「今、平和な日本でよかった。戦争は絶対いやだ。」「戦争はしないでほしい。」「戦争には行きたくない。」などの感想を寄せてくれた。

 この時、私は新たな目標を見つけた気がした。次世代への戦争体験を語り継ぐ責務だ。桔南小は、以後十七年間、昔のくらしの単元に語り部として招き続けてくれている。

・介護保険制度に救われる

 二〇〇〇年、退職四年目。九十歳の義母は前年の暮れに骨折してから認知症も重くなり始めた。市立病院で診察を受けた帰りに、病院に隣接した施設に何気なく立ち寄ったところ、職員が招き入れてくれて「三ヶ月間、リハビリ入所できる施設です。」と説明した。義母の「歩けるようになりたい」との一言で、手続すると、間もなく面接の案内が来、面接後すぐに入所の許可が出て、一月からリハビリ入所した。

 二〇〇〇年のその時期は、4月から介護保険制度が始まるというので、あちこちに介護老人福祉施設が建設されていて、高齢者の介護認定も始まっていた。施設に居る義母も受けた。すると、「お宅のおかあさんの段階だと充分施設に入れます。新しい施設ができていますから、今なら希望する所へ入れます。」とのこと。とは言え、三年間の在宅介護に自信を得ていた私は、“老人ホーム”というイメージに少々抵抗を感じ、ためらっていた。その背中を押してくれたのは、老健の職員だった。「私たちは仕事として介護やリハビリに携わっています。勤務時間内は精一杯のお世話をし家に帰れば疲れも取れるようローテーションを組んでいます。でも、家族は二十四時間ですよ。共倒れになりますよ。施設に入ってもらって時々訪れ笑顔で接した方が互いのためだと思います。」と。素直にうなずけた。

 その四月から義母は、新築ホテルのような施設で暮らすことになった。私は毎日一時間は施設を訪れ、義母と一緒に他の入居者と話したり歌ったりし、外泊の名目で月一回のペースで家へ帰る日も作った。施設での義母はいつも楽しそうでにこにこし、手厚い介護に満足してか、「ありがとう」を繰り返してくれる人になっていった。

 こうして義母の落ち着いた日々のおかげで、夫と二人で、共通の趣味のゴルフで桔梗が丘の中だけでなく名張や伊賀の人などと広く交わる人々を得ていく。その他、私は、詩吟や点訳奉仕にも復帰、相談室勤務や桔南小の語り部も続け、退女教名賀支部の世話人として「私たちの戦争体験手記集」の冊子も作った。

・地域の高齢者との関わりも

 二〇〇四年十一月。新たな任務が舞いこむ。民生児童委員の仕事が区長さんから届く。退職後、声を掛けてくれたことは可能な限りやらせてもらうことにしていた私は、ありがたく受けさせてもらった。十二月から始まった民生児童委員の役割は主として、七十歳以上の高齢者の把握と、見守りの必要な人への支援だった。

 桔梗が丘地区は、一九六五年頃から開発された住宅地で、一気に住民が増えた。地方の新興住宅地の例に漏れず、移り住んだ時は子育て最中の三十・四十代だった人たちも、四十年後には、子ども達は自立して市外や都会へ出て、高齢の夫婦だけの生活や独居生活になり始めていた。

 義母が施設でお世話になっている分、地区のお年寄りのために頑張らせてもらおうと意気込んでいた矢先の、二〇〇五年二月一日深夜、義母の急変が知らされる。駆けつけて見守る中、静かに息を引き取った、老衰だった。九十五歳の天寿を全うした。穏やかな最期に安堵した。

 その年、地区内に、念願の集会所が建築された。桔梗が丘五番町の四人の民生児童委員が中心になって、二〇〇六年三月から「五番町生き生きサロン」を始めようと計画する。

 参加者全員に必ず一言ずつでも皆の前で大きな声で話してもらうこと、若い頃から蓄積した経験を仲間同士で伝え合い教えあうこと、“老いても生涯学習”を目指して学習の場を作ること、この三つを柱にする運営を考えた。

 月一回、皆が集まりいろいろ話を聞かせてもらっていて当たり前のことに気付く。この方たちは、大正末期から昭和に入ったころに生まれ、戦争の続く中で苦労した人たちなのだと。「終戦は、どこで迎えられましたか。」の問いかけをしたところ、「あんまり思い出したくなくて、今まで子ども達にも話したことがないんだけど…。」と言いながらもポツリポツリと戦時中の話が出てきた。幼い頃から軍国主義の教育をたたきこまれ、銃後の守りの一翼を担わせられる年頃に体験された話は具体的で生々しいものだった。民生児童委員の四人も、戦中の記憶が少なからずあるものの、スケールが違っていた。

・サロンへ五番町の子ども達を招く

 サロンで互いに昔話を披露し合って、自分とは違った土地の当時の様子を聞くのも勉強になるけれど、この話は、もっと若い人にも聞かせたいと考えた。サロン開催日に招けば聞いてもらえる。夏休みだと小学生は来てくれるだろう。六年間に何回も参加してたくさん聞いて戦争中の様子を知って考えを深めてもらおうと考え、サロンの仲間にも賛同してもらって、二〇〇七年の夏休みから始めた。

 第一回の二人には、いつも寡黙だった方を説得して準備してもらった。終戦に近づいたころ、宮崎の特攻隊基地で突撃機の整備兵だった人の話。出撃した兵士の遺書遺品を千葉の実家まで届けた時の母親の姿に胸打たれ、以来特攻隊で散った若い命を悼み続けていると話された。もう一人は、十六歳で既に働いていた頃、三月以降七回もの空爆の中で命を拾ったという大阪での体験を話してくれた人。

 次の年からは、進んで話してくれる人が出てきた。皆、生き延びたことを喜ぶ半面、若くして亡くなった人、非道な無差別な爆撃で亡くなった人など多くの戦没者を悼み、平和への願いを切々と語ってくれた。参加してくれた小学生もサロンの仲間も皆、涙をこぼし六十年前の日本には戻したくないと毎回話し合った。その後、聞き取れなかった部分もあったらしいので、録音したものを記録してプリントし、配布して再び感動を深めてもらえるようにした。

 これは、今年まで十年続いているが、まだ話せてもらえない人もいる。この「戦争体験を聞いてもらう会」に出てきた場所は、名張だけにとどまらない。東京・横浜・福井・奈良・京都・大阪・佐賀・愛媛・鳥取・島根・宮崎・亀山・中国の大連や満州にも及んでいた。中には、軍隊生活の過酷な様子も。新興住宅地ならではのことだろう。

・小学校へ語り部を誘う

 数年前から桔南小より、三年生だけでなく六年生の歴史学習にも語り部の要請が来た。私の聞き伝えより、体験者の生の声を聞いてもらった方がよいと、三~四人に一緒に行ってほしいとお願いする。杖なしでは歩けない、たくさんの子ども達の前で話したことがないと渋る人たちを私がサポートすると説得して実現。涙を拭きながら声を詰まらせても語った話に小学生は感動。当時のラジオや新聞の情報に偽りが多かったという話から、毎日、新聞を読んできて学級で話し合うことにも発展させてくれる学校でもある。今では、三年生のPTA学年行事として親子で体験談を聞く学習会も定着した。

 考えてみれば、現在の小中学生の親も祖父母も先生も皆、戦後に生まれ豊かになった頃に育った世代になっている。十年前にサロンで話してくれた人も他界されたり施設や子供さんに引き取られたりして桔梗が丘を離れ始めた。せめて五番町内の体験者の聞き取りを急いでおかねばとサロンに拘らず収録に努めている。と共に、桔南小やその他の学校でも、同じように身近にいる高齢者から話を聞いて記録し語り継いでほしいと次の世代への期待を込めて話しているのだが。

 今年は戦後七十一年。以後も八十年百年と戦後が続いてほしいと願うものの、世界の情勢も国内の政治も不穏な空気が流れ、きな臭さがプンプンし始めている。そのうち、「戦争反対」「戦争はよそう」「手を貸すのもごめんだ」という声を、次世代へ届けることも弾圧されるようになるのではないかと危惧される。今年はまだ、市の教育センター登録の教育アドバイザーとして、市内の小中学校でも平和教育の講義を何回かでき、先生たちにも研修に招かれ、先輩に手渡された手記を紹介することもできた。戦時中の教育の中身や当時の女教師の勤務の厳しさ等が記されていた。

 だが、こうしたことがいつまで続けられるだろうか。現に、戦地での体験をある団体から頼まれて話すことになっていた方の講演の会場貸与に圧力をかけられ実施できなくなったという報道も、今年あったのだから。今、できる時にできることをしておかなければ、「いつかきたみち」になりそうで怖い。

・夫亡き後、地域の仲間が相棒

 三年前の二〇一三年、発病後六年にして夫は亡くなった。病気になっても体力だけは維持できる治療をと願ったとおり、死の直前まで酒を飲みゴルフを楽しんだ。そして、子どもや孫たちと歓談していた数時間後に傍にいた誰も気づかないうちに安らかに逝ってしまった。

夫の死後、私を寂寥から救い出してくれたのは地域でのボランティア活動だった。桔梗が丘自治連合協議会の町づくりプロジェクト事業。“お助けセンター絆”である。四年前から準備して三年前から始動した。高齢のためや病気の後遺症や運転免許返納やで、様々な日常生活に不自由している方々を支援する事業である。準備段階から参加し運営委員の一員であったが、夫の死で、気力が落ちた。間もなく、仲間が声をかけ仕事を与えてプロジェクトに戻してくれた。おかげで生き返れた。

 私の役割は、相談に乗り話を聞くこと。スタッフが足りない時には、草引き、ガラス拭き、簡単な剪定などの作業員としても働き、依頼者との世間話も大事な仕事と思っている。日常生活支援は三年前から、外出支援は今年から始め、配食サービスも来年4月から始めることになっている。

 いずれも利用者が増え続け喜んでもらえるし元気になってくれる。それが逆に私たちの元気の源になっていて、「私たちの方が利用者さんからボランティアしてもらっているような気がする。」という仲間に共感している。

 この地に移り住み、何らかの関わりを持った者同士は、共に長く元気でいきたい。若い世代に貴重な体験を引き継いでもらいたい。そう願い、いずれは自分も受けることになる助け合いの仕組みを築いておこうと、仲間たちと頑張っているところだ。たとえ、この事業の出発点が、公の職務を地域に丸投げしていることであっても。

・終わりに

 扉をあけっぱなしにして、かけてくれた声には否と言わずに応じてみると、それが生きがいにつながり、地域で生かされていることに気づきました。ありがたい二十年間でした。昼も夜も泳ぎ続けていないと死んでしまうという魚がいるそうですが、私はまさにその魚です。これからもずっと動き続けなければと思っています。まだ息をしていたいから。

 最後に会員の皆様にお礼を申し上げます。ひとりよがりの長文に貴重なページを割いていただき感謝でいっぱいです