『岡潔先生の情緒の教育』

 理学部数学科 昭和三十六年卒 中西 栄美

  世界に十人しか理解できないといわれる多変数関数論の、岡 潔先生に憧れて奈良女子大学に進学したといっても過言ではない。

 先生の講義は三年生からなので、一・二年生の夏休みは図書館で猛勉強した。

 卒業試験は、たしか先生の第九番目の論文から出題されたと聞いた。試験当日、登校すると黒板に二題書かれていた。もちろん少々考えただけで解けるはずはない。外出は自由だったので図書館へ行って何かヒントを探したがあろうはずはない。ようやく観念して本気になった。提出のリミットは夜中の一二時。答案用紙を提出したのは夜の七時だった。

 不思議なことに先生の講義を受けると、気持ちが高揚して勉強したくてたまらなくなった。講義中に先生の口から発せられた至言の数々。例えば「我と文机の間に間隙ありぬべし」「昨日の我を汝と呼べり」「芭蕉の句『よく見ればなづな花咲く垣根かな』鋭い発見の喜び」等々。必死にノートの端に書き留めた。

 先生の提唱される情緒の教育は、沢山の著書、なかでも「春宵十話」「紫の火花」「情緒の教育」等々に詳しく書かれている。ぜひ読んで欲しい。

 私は半世紀余り中・高・短大で数学を教えてきた。その間私の願いはただひとつ、岡先生のように学ぶ喜び、勉強したくてたまらなくなるような魔法をかけることであった。先生は私の目標であり、常に行く先を照らす北極星のごとき存在であった。

 一昨年とてもうれしい発見があった。それは一冊の本に巡りあったことである。本の題名は「数学する身体」(森田真生著)著者は若き数学者だが異色の経歴を持つ。東大の文学部から、岡先生の影響を受けて数学に転向した若者である。輝ける北極星は一世紀余りの時を経て若者の行く手を照らし出した。その光に気付き追い求める若者達が出た。

 これからはAIの時代。学習する電子頭脳に対抗できるのは「情の大切さ」「情緒」「人情」。これこそが我々人間の最後の砦となるのではないだろうか。