『朝鮮通信使友情ウオークに参加して』

 理学部化学研究科 昭和四十八年卒 延与 恭子

  二千十七年秋、江戸時代の朝鮮通信使がユネスコの世界記憶遺産に登録された。これは日韓両国の団体から申請されたものであるが、意見の食い違い等を修正しながらの作業であったようである。

 私達は、二〇〇七年に朝鮮通信使が始まって四百年を記念して、ソウルー東京間を歩いた。その後二年に一回歩き、二〇一七年で六回目を迎えた。

 このウオーキングの日本隊は、朝日新聞が以前主催した「伊能忠敬の足跡をたどる」で三年かけて日本一周を果たしたメンバーが母体となっている。日本ウオーキング協会に属している人が多い。隊長は朝日新聞の元記者である。私は思いがけないきっかけから通信使ウオークからの参加である。韓国側は・仏教系の大学「東国大学」の体育の元教授が会長となっている韓国体育振興会で、会長が隊長を務める。共に朝鮮通信使に興味を持っていて、伊能ウオークで日本を一周した唯一の韓国人が仲立ちとなり話が進んだようである。

第一回のウオークが成功した後、「朝鮮通信使縁地連絡協議会」の一員となった。そしてこの協議会がユネスコに記憶遺産として申請することを決めてからは、通信使のウオークの時には、幟を持ってソウルから東京間を歩いた。この協議会には、津市と鈴鹿市の唐人踊りの会も入っている。

 古くは室町時代にも、日本は朝鮮と貿易をしていた。とりわけ対馬は平野が少なく作物が少ししか取れないため貿易で生計を立てている者が多かった。しかし秀吉の朝鮮出兵で対馬の人々は道案内をさせられた。朝鮮出兵が終わっても、国土を踏みにじられた朝鮮側の怒りはすさまじく、貿易は再開されなかった。しかし困窮していた対馬藩の骨折りで朝鮮王朝と江戸幕府(家康)との間に国交が回復された。

 初期の朝鮮側の目的は「国書の回答と文禄、慶長の役で連れ去られた捕虜を連れ帰る」ことであり「回答兼刷還使」と呼ばれた。「朝鮮通信使」と言う名称は第四回目からで、これは「信(よしみ)を通わす」と言う意味である。将軍の就任祝いとなり、千八百十一年まで十二回行われた。

 我々も二年に一度十二回行う予定なので、最終は、二千二十九年となる。このウオークは「体力、気力、財力」の三拍子がそろわないと駄目である。私は八十歳になる。その時一日平均三十キロ歩けるだろうか。これを目標に精進しよう。

 我々のウオークも最初は風習の違いで、少しもめることもあったが、回を重ねるごとに気心が知れ、再会が待ち遠しい。

 通信使一行が行う馬上才と言う馬の曲乗りが、江戸時代の日本では珍しく、好評であった。韓国の氷川では近年それを復活させ、再現できる馬場も整備している。年々技が高度になってゆき、若い人たちが取り組むようになってきている。また我々に披露してくれる踊りやテコンドーがますます素晴らしくなり、地域振興に役立っているようである。

 狸おやじのイメージがあり、あまり好きでなかった家康であるが歴史を振り返ると、外国を侵略せず、平和な世の中を築いた江戸幕府の骨組みを作った家康は偉大であったと今更ながら思う。

 日本人、韓国人、在日の人達、最近は台湾の人達も加わり、輪がひろがっている。若い人たちに上手くバトンタッチできることを願っている。

 渡辺支部長から紹介していただいた、辻原登著「韃靼の馬」を取り寄せた。朝鮮通信使が題材になっているそうである。読むのを楽しみにしている