母校の跡地を探す

理学部生物学科  昭和47年卒 東 博美

 第8波と呼ばれる現在、コロナとの付き合い方は未知の感染症として突如現れた当初とは随分と変わってきた。ワクチンや治療薬の開発も進み、国の方針は経済活動との両立に軸足を移し、個々に生じるストレスも次第に緩和されつつある。

 そんな中、夫に同乗して行ったことのない集落を訪れたり、廃校となった学校の跡地を探したりのドライブを楽しんだ。

 私の最初の赴任地は尾鷲である。その周辺のいくつかの集落に踏み入っては、「あぁ、あの子はこういう所で育ったのか。」と、新米教員になついてくれた生徒の顔が浮かぶ。彼らの出身中学校のいくつかはすでになく、地域の活動に活かされているところもあれば、無惨な姿を晒しているものもある。また、2020年の「歌会始の儀」に入選された森紀子(もりとしこ)さんの「茶刈機のエンジン音は響かひて 彼方に望む春の伊勢湾」を頼りに、四日市市水沢町を訪れたこともあった。伊勢湾が見える茶畑とはどの辺りかと、一面の茶畑の中を行きつ戻りつしながらゆっくりと車を走らせた。居住地である松阪をまわったときには「松阪市にこんなところがあったのか」と、73年もの長い間をこの地に生きながら、初めて見る景色に驚いた。

 

ふと気づくと、私自身の出身中学校「大平中学校」もまた廃校となっている。1979年に飯野中と統合し東部中となり、校舎はその後防火訓練の名の下に焼かれた、という記事を新聞で読んだ記憶がある。遅ればせながら、先日その跡地を見に行くことにした。実家から当時の通学路を辿れば簡単に行けると思ったのは浅はかだった。道路事情が大きく変わっていて、土地勘の悪い私が夫を案内することは叶わず、逆の方向からアプローチすることにした。櫛田川の堤防を上流から下流に向かって走ると、まず統合された東部中学校の校舎が見えてきた。実家の甥や姪はここまで通っていたのかと思いながらしばらく行くと、広い敷地に重機が一台ポツンと置かれた資材置場らしき場所に出た。位置からしてここに違いないと思ったとき、赤い実がいくつかぶら下がったカラスウリが絡まった当時そのままの校門が目に入った。さすがに名前は削られていたが、確かにここだ。何とも懐かしい。何十年ぶりの再会だろう。その校門とともに撮った写真を、さっそく同窓の兄と弟にラインで送る、「ここは何処でしょう?」と添えて。

 思えば、先日体調を崩した時に相談にのってくれた医師のセキオカ君も、絵画展への招待状を送ってくれたケンちゃんも、演劇活動と紙芝居のボランティアを続けているノブオさんも皆、ここでの時間を共有した同級生だ。生きている限り、どこかでそれぞれの人生を紡ぎ、今に繋がっている。

 そう思ったとき、今この瞬間にも多くの命が失われているロシアによるウクライナ侵攻の現実が思い出された。一人ひとりの生きるはずだった人生が、個としてたった一度きりの人生が断ち切られていく。一人の命を救うために医療がどんなにか努力を続けているというのに、戦争というものは、いかに効率的に多くの命を奪うかに集中される。なんと愚かなことか。

 母校の跡地に立ち、せっかくはしゃいだ気分が急速にしぼんでいった。


with コロナの中での密かな楽しみ ~受験勉強だったりして~

家政学部被服学科 昭和53年卒 畑中 善子

 

 もしもコロナがなかったら・・・

私は息子のハワイ挙式に同行して、ハワイに行けたはず

 もしもコロナがなかったら・・・

斎宮いつきの宮の観月会で、龍笛を吹いて、舞を舞っていたはず

 もしコロナがなかったら・・・

我家のリビングダイニングは床暖房になっていたはず♨

  でも-

 息子たちが楽しそうに計画していたハワイ挙式はコロナで取り止め。

子供が二人になって、まだ行く気はあるのかしら?

 龍笛講習会は、一度説明会があって、ビデオを見て、笛を買って帰って、それっきり、次の年も取り止め。

 自宅のLDKの床暖房工事は、部品が入ってこないとかで、(コロナのせいかどうかは知らないけど、半導体不足?)延び延びになって、2度目の冬が近づいてきた。同時に予定していたカーテンや家具の模様替えも、延期したまま立ち消え状態。           

 そんな中、私はピアノを習い始めた。

覚えている方もいらっしゃるかと思いますが、10年ほど前の佐保会で、奈良にバス旅行した際に、佐保会館2階にあったピアノを延与さんが演奏して、皆で「ふるさと」を合唱するということがありました。その時、こんな風にピアノが弾けたらいいなあ♪♪と思ったのです。

それから数年グズグズした挙げ句、ようやく思い切って始めることになったのですが、10分も練習を続けると集中力がなくなってくる。娘は、ピアノは右手と左手で全く別々な事をするから、ボケ防止に良いと言って励ましてくれる。しかし、発表会があるらしいと話をすると、夫から、もう少し上手になってからにしたら、と言われた。

 そうそう、コロナの間に、毛糸編物技能検定の3級、2級、1級に合格した。ほんの思い付きで、半世紀以上自己流でやってきた編物が通用するか試してみたものだが、テキストと過去問を見て、これは落とせない!と思った。

編物の歴史、繊維、糸の構成、衣服の手入れ、襟や袖の名称、刺繍、色彩、デザイン要素、デザイン画、製図 等々家政学部被服学科卒としては、試験前に無理やり詰め込んだ。

1時間半の実技は、時間内に集中できるように毎晩練習した。

何十年ぶりかの試験勉強で、達成感があった。

 考えてみると、私は、奈良女子大学と佐保会に引っ張られているのかも知れない。

 学級閉鎖続出の学校で子供が感染してくれば、一家全滅。手助けしようにも迂闊に近寄れず、口出しも遠慮しがち。気をつけているつもりでも、いつ感染しても不思議はない。そんな日々の中で、私は自分なりの石ころを拾い上げた。

 次はどんな石を拾おうか。


コロナの中での楽しみ

理学部数学科 昭和62年卒 黒田 由美子

 私は大学卒業してから現在まで、電機メーカーに勤務し35年になります。こんなに長く務めるとは思ってもいませんでしたが、実家の母に子供の面倒を見てもらえたため、辞めるタイミングがないまま、あと2年ちょっとで定年を迎える年になってしまいました。

 コロナが流行りだしたころは、まだ三重県内の陽性者は1人もおらず、遠いところの出来事と思っていましたし、まさかこんな長い期間振り回されることになるとは思っていませんでしたが、東京本社からは、三重県の工場に対しても出社を控えるために、ゴールデンウィークが1週間追加になったり、在宅勤務、週休3日などをするよう指示があり、緊急で対応をしたことが今では懐かしく思われます。

 というのも、もうすぐ3年になろうとしていますが、コロナ前では考えられなかった在宅勤務や、製造現場の週休3日が当たり前に行われているからです。

 そんな中での楽しみは、在宅勤務の日の朝にオンラインヨガをすることと、観葉植物の水遣りです。子供たちが独立したことに加えて、ステイホームで家で過ごす時間が増えたことにより、少し時間に余裕が持てるようになりました。

 若いころは、睡眠時間を削って仕事したり、先輩たちを見て自然に仕事を覚えてきましたが、今はどちらも難しくなっています。過渡期である今は不都合を感じますし、特に若い方は不安も多いと思いますが、コロナ禍の中で進化した仕事のやり方と、これまでのリアルな中での仕事のやり方のハイブリッドで、いいとこどりの働き方になっていくと思いますので、さらに楽しみを見つけていきたいと思います。