卒後の還暦

文学部国語国文学科 昭和37年卒 西羽加代子 

 大学卒業後、中学校教師となりました。当時の桑名郡多度中学校を出発点とし、その後は桑名市の陽和、光風、明正、光陵と転勤しました。それぞれ地域の特性はありましたが、全体として、生徒は明るく活発でした。勤め始めた頃は、集団教育を志していました。私が明正中学にいた頃に、校内暴力の波が伝わってきて、一時は大変でしたが、次第に収まり、生徒は落ち着きを取り戻して来ました。光陵中学は、新設三年目の活気がありました。1年から3年まで担任した生徒が卒業し、私も思い切って、32年間勤めた中学校を54歳で退職しました。

その後、

・日本画と、戸塚刺繍を習い始め、はじめの一歩から出発し、作品を展覧会に出していただきました。

・同時進行ですが、力を注いだのは古典の勉強です。退職して「万葉を読む会」に入り、万葉の一番歌から読み始め、令和元(2019)年、高齢となり、閉じた時は、11巻の2075番まで進んでいました。

・桑名では、私の高校時代の恩師、松岡先生が、万葉集が大好きで「桑名万葉の会」を始めておられ、私も退職後すぐ入れていただきました。私も勉強して「万葉を読む会」の仲間と共に、講師の一人に入れていただきました。この会は、講座が終わると万葉歌に曲をつけた歌を歌いました。また、万葉旅行も年一回あり、好評でした。始めて20年たった頃、先生もご高齢で、幕を閉じました。

・私はさまざまな方々や夫とも万葉の旅を楽しみました。東北の多賀城碑から、九州の太宰府、志賀島まで各地の万葉遺跡を巡ることができました。奈良交通主催の「万葉の大和路を歩く会」に参加し、犬飼先生や清原先生の説明にうっとりと聞き入りました。また講座では、中西進先生や廣岡義隆先生のお話を聴講できました。

・私は一人でも、名古屋のカルチャー教室に出かけていて、枕草子、源氏物語五十四帖等多くの平安時代の文学を、久保朝孝先生より学び、終わりまで読みました。

・2012年4月29日、夫が留守の時、突然気分が悪くなり、一人で救急車を呼びました。その病院では、脳外科のある病院へ行ってくださいと言われ、駆けつけた夫と共に、桑名医療センターへ行きました。連休にもかかわらずお医者さまが揃っておられ、ラッキーでした。6時間半の手術と、あとでお聞きしました。クモ膜下出血でした。その後は前の趣味はやめて、家事中心に短歌と読書に取り組んでいます。

 木犀の香る日、佐保会支部長様より、卒後60年のご連絡をいただきました。還暦ですよ。新しい出発です。ゆっくり歩いていきましょう。優しい声が聞こえたように思いました。


奈良女卒業50周年記念同窓会

家政学部食物学科 昭和47年卒 萩原範子

紅葉たけなわの奈良で、卒業50周年同窓会が奈良ホテルでありました。コロナで開催が危ぶまれましたが、行楽日和になり無事実施することができ、ほっとしました。

卒業30年後、40年後、にも実施し、今回は50年後となり最後の同窓会です。出席者は、10年ごとに減少し、食物科卒業27名中9名の参加でした。まさか北海道の帯広に根を下ろすことなど思いもよらなかったという人が北海道の銘菓を、千葉県に家を建てた人が千葉名産の落花生を、鹿児島で社会労務士の資格を取って事務所を開き、今年ついに次世代に引き継いで肩の荷を下ろしたという人は鹿児島名物軽羹を持ってきて、二次会で話題が盛り上がりました。

 コロナで大学構内に立ち入るには検温と許可証が必要でしたが、佐保会館を見学しました。長谷川千鶴先生がいつも居られた場所として思い出されます。

 学生時代はアルバイト生活で、奈良ホテルなんて憧れのホテルでしたが、50年後においしいフルコースを堪能し、同窓で文学部教育学科卒中島ひろ子さんの発達障害についてのプチ講演がありました。発達障害の子供を育ててきた食物科卒業生は、「50年前に聴いていたら悩むことも少なかったかも」と、自分の子育て時代を振り返っていました。

 余興で、50年前の物価クイズがあり、大学の1か月の学費は1000円だったと知りました。学費を出すのは親側でしたからあまり記憶にありませんが、自分が親になり子供の学費を出す側になると、なんと安かったことでしょう。下宿代は平均3300円、家庭教師月給5000円で、最も割がよかった記憶があります。卵1個は15円でこれは今もあまり変わらず物価の優等生と言われるわけです。

 奈良ホテルでの2時間半はあっという間に過ぎ、名残を惜しみつつお別れしました。

その後食物科だけで2時間ほど喫茶店でおしゃべりの2次会を楽しみました。きっと学科ごとにいろいろな催し物が計画されていたことでしょう。

 私は学生時代には観世会に入っていて謡や仕舞をやり、卒業時は能をやるという流れでした。しかし部員が次第に少なくなり、能を開催する多額の費用が捻出できず、ついに能面を付ける装束能ができなくて、袴能になってしまったのが今でも心残りです。観世会の同窓生は4人いましたが、残念ながら今回は2人欠席でした。名古屋市にいる後輩は今でも名古屋市能楽堂でお披露目していますが。

 卒業50年経っても話し始めると、皆学生時代の面影は変わらず気分は20代のままでした。悲しいかな容姿は年相応となり、体力の衰えをお互いに嘆きあいました。

 元気でいましょうと言い合って、名残惜しい奈良を後にしました。短い時間でしたが、同窓会に出席して良い思い出になりました。